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小学部

新コーナー 「先輩保護者にお聞きしました」

 

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新コーナー「先輩保護者にお聞きしました」

先輩保護者」って?

かつて盲学校に在籍した幼児児童生徒(先輩)の保護者という意味と、今在籍している、またはこれから盲学校への就学を考えている保護者の先輩という意味があります。

 これから盲学校にしようか、小学校にしようか、あるいは他の特別支援学校にしようか悩まれている保護者の方たちにとって、同じような悩みを経験されてきた保護者の方々の経験談やアドバイス、今だからこそ思うことなどをお聞きして、少しでも「後輩保護者」の方々の参考になればと思って企画しました。

 


第1回「宮田容子さんにお聞きしました」

 第1回は宮田大輔さんのお母様、宮田容子さんにお話をお聞きしました。大輔さんは、本校の幼稚部に入学後、小学部(平成5年入学)、中学部、高等部普通科まで盲学校に14年間在籍し、卒業後は東京都日野市にある視覚障害者のための総合福祉施設「東京光の家」の「新生園」(障害者支援施設[訓練型])に入所し、現在に至っています。

 


盲:宮田さんの場合、盲学校の小学部を選んだ理由は何だったのでしょう。

宮:うちの場合は、幼稚部から通っていたし、幼稚部でうまくいっているように感じていたので、そのまま盲学校の小学部というふうに、あまり迷わずに考えました。

盲:やはり幼稚部での実績というか、経験は大きかったですか。

宮:そうですね、幼稚部には本人も楽しそうに通っていたので、このまま専門的な教育の受けられる盲学校の小学部へと考えました。

盲:宮田さんの場合は幼稚部での経験が大きかったとのことですが、小学校への進学とまでは行かなくても、小学校へ交流教育に行くことについてはどのようにお考えになられたのでしょう。

宮:人に聞くと、「大勢の子どもたちに囲まれて育つことが大切なんだ」みたいなことを言う人もいたのですが、大勢の中で一人だけイスに座って、何もしないで置いておかれても、何か意味があるのかなと思っていました。大勢の中で刺激を受けるっていうのが、イメージできず、よくわからなかったんです。盲学校にいれば、うちの子に合った専門的な教育が受けられる、その方がよっぽどいいかなと思ったので、地域での交流ということも考えませんでした。

  誰でもそうだとは思うんですけど、私も当時はまだ、自分の子の障害の程度を認めたくないという部分を持っていたので、もうちょっとこうなるんじゃないかとか、もっとできるようになるんじゃないかとか、視覚以外の障害を認めたくないという思いがまだありました。今でこそ素直に自分の子の障害の状態を知的な部分も含めて認めることができて、結果としては本当に盲学校で良かったと思っています。

盲:今は、以前に比べて就学する学校を選べるようになってきました。けれども学校を選ぶための十分な情報が確保されているかというと、残念ながらまだまだだと思われます。もっともっと保護者の方たちへの情報の発信は必要だと思っています。そこで一つの情報発信として、今回のこのようなことを企画した訳なんです。

宮:今の若いお母さんたちと私たちのころとは時代が違うし、まわりの環境とかも違うとは思いますが、自分の子の性格や能力をしっかりわかることが大切だと思います。みなさん、その時その時で一生懸命だとは思うんですけど・・・。でも、私はやっぱり専門的な教育の場としての盲学校を薦めたいですね。

盲:ありがとうございます。ところで、こうして盲学校を取り巻く環境が変化してきているのですが、これからの盲学校はどうしたらいいでしょうか。宮田さんからの提言のようなものはありますか。

宮:小学部の段階では、まだ先のことはわからないことも多いと思うのですが、点字ができる子には点字をできるようにするとか、できない場合にはその前の段階をするとか、その子に合った専門的なことを指導してほしい、その子のできること、得意なことを伸ばしてほしいと思います。さっきも言ったように、視覚に障害を持った子に専門的な教育をきちんとしてほしいということでしょうね。それが一番できるのが盲学校だと思います。

盲:そうですね。盲学校の存在価値は、突き詰めればそのことに集約されるのでしょうね。では、学校ということではなく、今悩んでいる若いお父さんお母さんたちに、先輩保護者としてアドバイスできるようなことはありますか。

宮:どこの学校に行かれるにしても、自分の子の障害の程度を理解すること。それって、難しいかもしれないけど、きっとできるできるって、何でもかんでも思っちゃうと、後でショックを受けたりすることもあるので、やっぱり自分の子を正しく理解すること、認めるということが、その時その時のいろいろなことを決めていく上でも大切だと思います。うちの子も、ずうっと点字ができるできるって思っていたけど、やっぱりダメだったって、どこかで切りかえなくてはいけないというのがあって、障害は目だけかなって思っていた、思いたがっていたけど、やっぱりそれだけじゃないんだというように認めざるを得なくなる。だから、きちんと認めることが大切だと思います。それが学校選びの場合も大切だと思います。まあ、できると思ってそれに向かって努力したことは、決して無駄にはなっていないと思うし、うちの子にとっても、待つことができるとか、机に向かって座っていられるとか、黙って話を聞いていられるということはすごく大事で、今の施設に入っても、そうしたことができるというのは良かったと思っています。今のところでも運動会とかあるんですけど、やっぱり目の不自由な子には不自由な子なりのやり方っていろいろあるじゃないですか。そういうことを盲学校でやってきて、それが今も続けていられるのも良かったと思っています。

盲:まあ、それは盲学校ですから、長い間のいろんなノウハウの蓄積があるわけですから。体育祭にしろ、文化祭にしろ、もちろん普段の勉強にしろ、そこが盲学校の専門性ですから。

宮:そう、だから専門的な教育ってところでは絶対に盲学校だと思います。

盲:応援の言葉、ありがとうございます。盲学校も肝に銘じてこれからもがんばっていきたいと思います。今日はいろいろとありがとうございました。

 

第2回「秋山竜子さんにお聞きしました」

 今回は、秋山里奈さんのお母様、秋山竜子さんにお聞きしました。里奈さんは、本校の幼稚部、小学部(平成6年入学)に在籍。中学からは筑波大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)に進学、1年間の浪人生活の後、明治大学法学部に合格。3年早期卒業制度を利用し大学院に進学。修士課程修了後、外資系医薬品会社に就職し、現在も活躍中です。その間、視覚障害者のトップスイマーとして3回のパラリンピックに出場。アテネでは100m背泳ぎで銀メダル、北京では背泳ぎが種目から無くなり50m自由形で8位入賞。ロンドンでは復活した100m背泳ぎで念願の金メダルを獲得しました。

 


P1060910.JPG盲:秋山さんの場合には、幼稚部から在籍されていましたよね。

秋:うちは何しろ生後2カ月から来たんです。里奈の目が見えないということが病院で分かって、もう次の日か、次の次の日かには来たんです。

盲:それは病院で紹介されたんですか?

秋:いや、そうじゃなくて、自分で探して来たんです。私、視覚障害者のことが全くわかっていなかったので、皆さんどうやっているのかしらと思って、自分の子が見えないということがショックだったし、目が見えないということがどういうことだかが自分でわからないから、まず盲学校に行ってどういう風に生活しているのか知りたいと思って、それもアポなしで行ってしまったんです。そうしたら、幼稚部にS先生がいらして、本当にS先生との出会いが私の人生を変えたじゃないけど、私たちを笑って過ごせる方向に導いて下さったと思っています。普通だったらちゃんとアポを取ってうかがってということなんでしょうが、幼稚部に案内されたらちょうど先生がいらして、私なんか泣いてばかりでオロオロしているのに、S先生が「お母さん、大丈夫ですよ、大丈夫ですよ」って言ってくださって、私なんか、目が見えなくても笑うことができるのかしらとか、歩けるのかしらとか、ご飯食べられるのかしらなんて、とにかく何もわからないじゃないですか。そうしたら、先生が「大丈夫ですよ。普通に育ててください」って、育て方よりも私の気持ちをゆっくり聞いてくださったんです。それから、「じゃあ、ちょっと学校の中をご案内しましょう」って、校内を案内してもらったら、ちょうど小学生くらいの子どもたちがいて、何かいろいろ楽しそうに喋っていて、私はその子たちを見て、また泣けちゃってグチョグチョになっているのに、「誰?何の車に乗っているの?」って話しかけてくれて、「赤い車よ」って答えたら、「何?風邪引いてるの?」って言ってくれたりしたのを覚えています。何しろ、私は、生後2カ月で来て、一番早く来ていて、初めの内は里奈を連れてこないで、一か月に1回くらいの相談で、里奈の家でのようすなどを伝えていて、それからしばらくして、まだハイハイもしないうちから里奈を連れてきて、そうすると、「お母さん、大丈夫ですよ。順調に育っていますよ。普通と同じように、お姉ちゃんと同じように育てて下さい」って、私をなだめるようにお話して下さったんです。

盲:では、幼稚部に入学されるまでは、そのまま教育相談を続けられていたわけですね。幼稚部に入ってからは、他の幼稚園へ交流するということは考えましたか?

秋:はい、地域の幼稚園にも年長のときに行ってました。盲学校はどうしても人数が少ないので、小学校は統合教育を希望していたので、3歳になる前くらいから市役所に掛け合っていたんです。希望は統合にして小学校に通って、専門の先生が一人付いてくれるとベストだし、それが無理なら私が付いて小学校に行って、専門のことは学校が終わってから盲学校に行ったりして勉強したいという希望を3年間にわたって市役所と話したんだけど、やっぱりそういう実例が無いからダメだと言われて、じゃあしょうがないから盲学校に入って、あと週に1回でも地域の小学校に交流で行かせてもらったりするしかないかなあと思っていました。

盲:本人はその当時何か言っていましたか?

秋:幼稚園に行って、自分は普通とは違うということがわかったみたいです。

 私はなるべく里奈に目が見えないということがわからないようにしていたんです。うちの禁句として「見えない」という言葉は使わなかったんです。里奈にも「あなたは目が見えないのよ」ということは絶対に言わなかったんです。でも本人が「私は何か他人とちがう」と気付いてきたようなんだけど、そのことについて本人からどうのこうのと言われたことは無かったです。地域の幼稚園に行ってもあんまりつらい思いはしなかったようで、週に1回だから何かお姫様のように大切にされていたみたいです。泥んこ遊びでも、男の子とケンカするでも、のびのびさせてもらいました。盲学校では、専門的なこと、手の使い方とか、走り方とか、食堂まで歩くにはどうしたらいいのかとか、物の触り方だとか、盲学校でしかできないことをしていただいて、本当にいい環境だったように思っています。

盲:でもやはり小学校の方に行きたいと。

秋:はい、言われて聞いていることは、普通によくわかっているようだし、上の子がやっている算数なんか聞いているだけでわかっているようだったから、小学校に行っても普通にはついていけるのではないかなと思っていました。でも、読み書きはどうするんだろうと不安があったから、盲学校から専門の先生が一人ついてくれると、全部がうまくできるんじゃないかなと考え、でも1年とかでは絶対に掛け合えないだろうからと、年少くらいの頃から市役所の方と掛け合ってきたんですけど、結局そうはならなかったんです。

盲:そうですね。今、秋山さんがおっしゃったような形が組めれば、本当のインクルーシブ教育になるのでしょうけど、実際に視覚障害教育を専門的に担える教員というのは、ものすごく少なくて、市町村単位でいうとほとんどいないというのは、今でもそうなんです。視覚障害教育は専門ではないけど、誰か教員を付けることができるというのが、現状なんです。

秋:今思うと、小、中、高まで盲学校に行ってて、そこで徹底的に専門的な教育を受けさせてもらって、それで大学はもう一般に出て行って、それが良かったんだなあって、二通りの道を行ったわけじゃないのでわからないけど、今はそう思っています。

盲:盲学校の小学部に入学したころに話をもどしますが、・・・

秋:1年生に上がったときに、正直「ああ盲学校しか行くとこが無いんだ」と思っていたんです。でも、1年生のときの先生が「盲学校でもね、お母さん。私は、お子さんの能力を全面的に全部見い出して、いろんな能力をつけてあげたいんです。私の力がある限り、盲学校の先生方のいろんな力を集めて、この子たちにきちんと力をつけてあげたいんです。社会に出るのは、高校でも大学でも、自分たちが行きたいと言ったときに出られるから、その前の段階として、外に出られる力をつけてあげたいんです。そのためには点字も速く読めないといけない」とおっしゃられて、そういうのは盲学校じゃないとできないじゃないですか。専門的な先生じゃないと。「受験するにしろ何にしろ、速く点字が読めないとダメだから」って、本当に徹底的にやっていただいたんです。また、あの子は負けず嫌いだから、点字でも珠算の検定でも本当によくやってきたし、だから、その先生の言葉を思い出しては、ああ、盲学校に入れば、こうやって専門的な先生が、これだけ熱心に、この子たちにできる限りの力を付けさせてあげたいっていうのが、そういう先生たちの気持ちが、毎日毎日、送り迎えしててもわかるんですよ。だから、最初に上がったときの「ああ盲学校しか・・・」という気持ちはすぐになくなりました。

盲:地元の小学校との交流もずっと続けていましたよね。

秋:6年間地元の小学校に交流に行って私が感じたのは、やっぱりできることもたくさんあるけど、できないこともたくさんあるということ。運動にしても、図工なんかにしても。盲学校ではいろいろ工夫されているけど、小学校では、やっぱりできないことがある。だから、里奈が筑波附属盲を希望しなくても、私は中学校との交流は希望しなかったと思ってます。それは、やっぱり、6年間、小学校に付いていって、自分の目で確かめたから、納得して思ったことなんです。私は自分が納得しないとダメなんです。だから時間も惜しまないし、里奈のために何かをするってのは全然苦にならないし、本当に楽しいし。で、交流については、これは、もういいかな。クリアしたから、その分、水泳とかピアノとか、そういうのでまた力を付けて、自分で楽しめることがあればいいのかなと思って、ちょっと自分でいいように考えているのかもしれないですけど。

盲:それで、中学部から附属盲に進学したわけですね。

秋:本人は附属に行きたいって言うけど、私は、それはもう泣けちゃって、泣けちゃって。中学生って言っても、まだ子どもじゃないですか。それが親元を離れて寄宿舎に入るって言うんで、私はもうどうするのかと思って、私が東京に出て行こうかな、どうしようかなと思って。でも、上の子がいるしなと思ってね。いよいよ合格して行くことが決まったら、里奈の顔を見るたびに毎日毎日泣けちゃって。でも本人は希望に胸をふくらませて「ああ、お友だちがたくさんできる」とか、すごく喜んで、自分が決めたことだし、「私の人生は私が決める」って、6年生のときに言われて、主人も私もそれから何も言えなくなってしまったんです。まあ、里奈が選んだことには、私たちは応援しようってことで。もしダメになったら、また平塚にもどってきて、もう一度力をつけて、何だってたいていのことはやり直しがきくから、とりあえず里奈の気が済むんだったら行かせようってしたんです。

盲:そうだったんですか。6年生でもう「私の人生は私が決める」って言ってたんですね。

秋:そう。そう言われたら何も言えなくなっちゃって。私は、中学までは平塚で勉強させてもらって、高校生になるときに受験すればいいのかなと思っていたんだけど、いろんなところから話を聞いてきて、中学から行くって言うし、それが良かったんだかどうだかわからないんですけど。

盲:いや、それは間違いなく良かったんじゃないでしょうか。だって、本人が自分で決めると言って行ってるんですから。

秋:まあ、本人が決めたことですからね。私は、本当に里奈の教育って、何かをしたりはしなかったんだけど、里奈のやりたいということに付いて行って、邪魔しないようにバックアップして、それで私自身も楽しんで、そういうことをしてきただけなんです。上の子もいたので、上の子にも同じようにしてきた、まあちょっと、下の子の方が甘え上手だし、強いしで、ちょっと里奈の方に偏ったかもしれないけど、子どもといろんなことをしているのが好きだから、私としても好きなようにやってきただけなのかな。

盲:それは、素敵な子育てでしたね。ところで、今、盲学校を取り巻く環境は以前とは変わってきているんですけど、これからの盲学校について伺いたいのですが。

秋:やっぱり専門的なことは専門的な学校にしかできないんだから、そこのところは、今までどおりに徹底的に子どもたちに力を付けてほしいと思います。また、実際に、そういうことができる先生方がたくさんいらっしゃるし、私が出会えた先生方が、本当にいい先生方ばかりで、そのときそのときに必要な先生にうちは恵まれてきたんだ、まわりに助けられてきたんだと思ってます。

盲:それでは、若いお母様方に、これまでの秋山さんの経験を踏まえて、アドバイスのようなものをお願いします。

秋:私たちのころに比べると、今の方がいろいろなサービス機関が充実しているじゃないですか、お迎えなんかでも今はいろいろなサービスを使えるかもしれないけど、もうちょっと子どもに手をかける、よく見てあげる。しゃべってもしゃべらなくても表情でもわかるし、「あっ、こういうことが、今、必要なのかな」だとかが分かってくる。子どもって何十年も一緒に過ごせるわけじゃないし、3歳は3歳のとき、その時、その時の子どもをよく見てあげる、他人任せにしないで。そうすると、親もいろいろなことに気付くことが多いんじゃないかな。私たちのころって、みんな忙しくても送り迎えをして、とにかく子どものことが見たいし、朝の会のころから、子どもが「はーい」とか言ってると、もう可愛くって帰れないんですよ。「えっ、もう10時半」「もう11時」って、「もうそろそろ帰らないと」「もういいや、ずうっと見ちゃお」って、ずうっといたりして。もうちょっと子どもにかける時間を持ったら、何かもっと違ってくるんじゃないかなと思います。そうすれば、親も楽しいし、もちろんたまには親だって何かこう発散する必要だってあるけど、学校にだけまかせっきりにするんじゃなくて、何に対したって最終的には親が責任を持たなくちゃならないんだし、まあ、教育は先生にお任せしても、その後のお勉強だって、家ではやっぱり「今、何してるの?」「あっ、今こういうの勉強してるの?」って、関心を持たないと、子どもとのコミュニケーションが取れなくなるし、子どもの気持ちもわからないんじゃないかなと思います。私は、そうやってきて、「ママはすぐ来るから、言わない」とか、ちょっとうっとうしく思われていたところもあるかもしれないけど。でも、「ママはずっと応援してくれてた」し、水泳のときも、「他の子はみんな、お母さんに怒られる」って言うんですよ。「このタイムじゃ、お母さんに怒られる」って言うんですよ。私は「何で怒られるの?」って言って、「でも、こんなタイムじゃ怒られる」って言うんです。私は、どんなタイムだろうが、里奈が活き活きして、頑張っているのを見るのが楽しいし、里奈も「私のお母さんが他の子のお母さんみたいだったら、水泳なんかやってなかった。ママなんか私のベストタイムも知らないでしょ」って。レースが終わって、コーチに「今日の泳ぎ、どうでした?」って聞いて、「お母さん、今日はベストタイムですよ」って、「えっ、そうだったんですか?」というくらいの感じだから、タイムなんか本当に分かんなくても、「ああ、里奈が頑張ってる」っていうだけで楽しかったし、でも、ロッカールームとか行くと、「ああ、ママに怒られる」とか言ってる子がいるんですよ。すると里奈が「ママがそういうお母さんだったらやってられなかったし、ママがこういう能天気な性格でよかった」って、それはよくわかるんですよ。

盲:そうだったんですか。それは親子で名コンビだったんですね。ピッタリ合ってたんですね。

秋:私って、結構教育ママみたいに見られるんですけど、実は、勉強なんかしていると、つい「もう、やめなさい」って言ってしまうんです。だって、勉強していると、それに付き合わなくちゃいけないじゃあないですか。

盲:まあ、付き合わなくちゃいけないってこともないと思うんですけど・・・。

秋:だって、珠算の練習しているときなんか、まだテープのスピードについていけないときには、こっちが読み上げなくちゃならないじゃない。もういいじゃない、もういい加減でいいのにと思っても里奈が悔しがってやるから、今思えば、子どもの性格に親も寄り添ってやってたのかな。子どもの性格を一番よくわかっているのは親なんだから。私は、子どもの子育てが成功したのかどうかはわからないけど、ちゃんと子どもに目を向けて、子どもための時間を作ると、何か新しい発見ができるのではないかなと思います。

盲:そうですね。今日は、本当に貴重なお話を伺うことができてうれしかったです。ありがとうございました。

 

第3回 「本多まゆみさんにお聞きしました」

このシリーズ第3回目は、本多正和さんのお母様の本多まゆみさんにお聞きしました。正和さんは、本校幼稚部から小学部に入学、その後、中学部、高等部普通科、高等部専攻科理療科に進学し(なんと17年間在籍)、あん摩・マッサージ・指圧師の免許を取得後、現在はマッサージ師としてご活躍中です。

視覚障害者の進路として、三療と呼ばれる鍼灸マッサージの業界は今でも最も重要なポジションにあるので、三療へ進んだ卒業生の保護者の方にお話をお聞きしてみようと思い本多さんにお願いしました。

 


盲:本多さんの場合は確か幼稚部からの在籍でしたよね。

本:正和の時はまだ3年保育になっていなかったのですが、幼稚部の前から教育相談ということで通っていました。うちは双子だったんですけど、兄の方が平塚市の通園センターに通っていまして、そこで、正和の方は目が不自由なので、専門の所へ相談したほうがいいと言われ、盲学校を訪ねてきたんです。初めのうちは、週に3回は盲学校、2回は通園センターということを繰り返していて、まだ盲学校に入学前だったんですけど、送り迎えをすれば預かってくれるようになったので、盲学校で正和をお願いして、私は兄の方と通園センターに行くようになり、年中の年齢になって、いよいよ盲学校の幼稚部に入学と言うことになり、それをきっかけに兄の方も普通幼稚園に入園という形をとって、そこからが始まりですね。

盲:じゃあ、本当に長いですね。

本:そうですね、本当に物心つく前から盲学校に来ていたんです。

盲:幼稚部から小学部へ上がるときに、盲学校以外の進学先は考えませんでしたか。

本:双子ということもあって、一緒にということも考えたんですが、でも専門的な学校ということで、例えば点字を覚えなくてはとか、そういう将来的なことを考えると、よっぽどサポートしてくれる体制とかが組めないことには小学校では難しいだろうと考えまして、で、やっぱり盲学校を中心にと考えて、一応交流教育で週に1回小学校に通うようにはしました。勉強の方は盲学校が中心で、普通の学校の経験は小学校の方でやっていくような形でした。

盲:交流していた当時の何か思い出はありますか。

本:今は交流っていうとボランティアの方とか専門の人が付いていてくれることもあるみたいですけど、あの頃は親が付いて行くことが前提でやっていたんで、一日付いていくのが大変でした。土曜日に交流していたから3時間だけだったので何とかなったけど、その3時間で私はへとへとになるくらいでした。でも、子どもはすごく楽しんでやっていました。

盲:交流はどのくらいまで続けましたか。

本:小学校2年生まで、ちょうど3人目の子どもが生まれる時期で、私に代わって主人が行ってくれたりもしました。それから、3年生になるときに藤沢に引っ越したので交流先も変わってしまって、少しだけ交流させていただいたんですけど、何か3年生くらいになると、子ども同士の関わり方というのも難しくなってきて、1、2年と一緒だったわけでもないので、難しくなってしまって、それで交流はあきらめて盲学校一本ということになったんです。

盲:当時、本人は何か言っていましたか。

本:あまり覚えてはいないんですけど、あの先生はこうだとかいうのは少しあったけど・・・、そうですね、勉強の進み具合でも遅れをとっているというのは全くなかったと感じていました。動きも、目に対してのことに気をつければ特に難しいことはなかったと記憶しています。

盲:小学校のペースだとどうしても難しいこともあったのでは?

本:そうですね。運動会とかも参加させていただいたんですけど、ダンスとかはどうしても難しいですよね。そういうところでは、私が後ろにくっついて一緒に踊るっていうようにやっていたんで、本人は何をしているのかわかってなかったんじゃないかなと思います。あと、1、2年生の頃はお兄ちゃんと同じ小学校がいいなみたいなことは言っていましたが、転校してからは、やはり盲学校の方がいいなという感じだったと思います。

盲:本多君の学年は4人いましたよね。盲学校としては、4人というのは多い方ですよね。

本:そうなんです。他の学年は一人とか二人くらいだったのにクラスに4人いたので、クラスの中で意見交換が成り立つ、多数決ができるというところでは、やっぱり4人いると活発だったみたいです。中学部に入ると新しい友達が入ってきたり、また部活をするようになると学年が上の人たちとも付き合うようになって、何かだんだんと自分の世界を作っていったようでした。

盲:そうですね、中学、高校生となると、どんどん自分の世界を作って、自立にも向かって行く時期だったんでしょうね。それでは、今、幼稚園とかもう少し小さいお子さんを持つ保護者の方たちに、視覚に障害のある子どもを育てていく上で、何かアドバイスのようなものはありませんか。

本:そんな、私から特に申し上げるようなことなんて特にないんですけど。

盲:例えば、こういうことはやった方がいいとか、私はこうしてきた、私はこういうことができなかったからこうした方がいいとか、私が気をつけていたことはこういうことでそれはよかった、みたいなことで・・・。

本:うちはたまたま双子だったので、二人を同じように育てなければと言う気持ちが強かったんだと思います。正和の目は不自由なんだけれど、不自由だからこんなことはできないんだというようにはあまり考えなかったんですね。確かに見えないがゆえにできないことはあるんだけど、そこは後ろから手を持って、手で教えてあげるとかそういうことでカバーして行こうという感じで、向かい側に双子の兄が居て、私が正和の後ろについて、手を持って何かをするというふうに、なんでも一緒にしていたと記憶しているんです。

盲:同じように育てたいと言うのはとても素敵なことで、本多さんのところはたまたま双子であったから同じようにという気持ちが特に強くあったと思うのですが、たとえ年が離れていてもやっぱり同じだと思うんです。人間が育っていくということは、みな同じように育っていくわけで、不自由な部分を周りで補っていく、自分で補えるような力が付くようにしてあげることが大切だと思います。たとえ目が不自由であっても同じように育てたいと言う気持ちでお育てになったのがよかったのだと思います。

本:目が不自由なのでできないこともあるけれど、でもその代わり、音に対しては敏感だったりということがあって、小さいときは誰々が車で帰って来たとか、どこどこに誰かが来ているみたいっていうふうに、情報を耳から拾うことはとても敏感だったので、そういうところを伸ばしていってあげたいと思って育ててきたように思います。今の若いお母さん方に、こうしなさいっていうのは全くないんですけど、ただ目が不自由だからってあまり悲観することはないのではないかなあって思います。今は、手を差し伸べてくれる方も多いですし、私たちの頃よりもっといろいろなところを利用できるようになってきているわけだから、自分ばっかりがつらいんだ、大変なんだということを思わないで、子どもに愛情を注いで育てていってほしいなと思います。

盲:最後の質問なのですが、これからの盲学校はこうあってほしい、ここだけは頑張ってほしい、こういうところは伸ばしていってほしいというようなことがありましたらお聞かせ願いたいのですが。

本:えーっ、もう本当にお世話になりっぱなしで、ここをこうしてほしいことって、多分、その時その時は思っていたのかも知れないですけど、今振り返ってみると、盲学校はそのまま残していただけたらという思いが強いですね。例えば、経験のある先生がどんどん異動になってしまう状況は避けてほしいですとか、あと何でしょう、そうですね、やっぱりそのくらいですね。

盲:現在、小学部には3名の子どもしか在籍していないんです。県内には、視覚に障害のあるお子さんは、まだたくさんいて、それは20年前、30年前とそれほど変わりはないんです。じゃあ、その子たちはどうしているかというと、地域の小学校に行っているんです。

本:えっ、じゃあ点字の勉強とかはどうしているんですか?

盲:それは、各校でそれぞれに対応しているんですが、ただ、例えば点字の指導といっても小学校の先生にとっては初めて指導するようなわけですから、かなり大変ですよね。

本:そうですよね。子どもにとって、点字とかの基本的なことを学んでからじゃないと難しいように思ってしまうんですけど。どうなんでしょう。

盲:私も基本的にはそのように思っています。でも、保護者の方にとっては、みんなと同じ小学校に通わせたい、みんなと同じ学校で勉強させたいという思いがどうしても強いんです。

本:私も気持ちはわかります。気持ちはわかりますが、みんなと同じ場所で勉強しながら、平行して目が不自由なことによる、点字だとか、歩行だとか、日常的ないろいろな基本的なことを学ぶことができるのであればいいのでしょうが・・・。そうも行かないでしょうし・・・。

盲:そうなんです。まず、子どもにとって学習する時間というのは限られています。学校で勉強できるのは5時間とか6時間なんです。ところが視覚に障害のある子どもが同じ内容を学習するには時間がかかるんです。でも、時間をかければ、そして視覚障害に配慮した学習を行えば、同じ内容を身につけることができるんです。例え小学校に視覚障害教育の専門家が居ても、小学校の教育を視覚障害に配慮した教育に変えてしまうことはできないんです。

本:ああ、そうですよね。

盲:最後に私の方が長々と愚痴みたいにしゃべってしまいましたが、今日はお久しぶりにお会いすることができ、また貴重なお話を伺うこともでき本当にありがとうございました。

 

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